自分の行動の基準を、人に委ねない。「お天道様は、自分の心の目」。
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昔、公共の場で騒いだりする子供を叱る時、「ほら、あのおじさん(おばさん)が見て怒ってますよ。やめましょうね。」と言うことがありました。
今でも言うのかな?
私は、この叱り方が『完全に、違う。』と、長い間ずっと感じています。
『誰かが見ていて、その人に叱られるから、自分の行為を正す』のではなく、『それがやってはいけないことだから、正す』
のが正解と思うのです。
これ、わかりません??真剣に。
こんな叱り方をしていると、『人の目ばかりを気にする大人になる。』と、私は思います。
やってはいけないことをする子供(大人もですが…。)を叱るのは、大切な躾(指導、教育)です。でも、その時『そんなことをした怒られるから』『人の目があるから』だけでいいのか?
もちろん、それもありますけどね。まったくないとは言わない。だけど、『とりわけ日本人は人の目を気にしすぎる』。
『判断の基準を自分の内に持つ』ということが、まったくわかっていない気がします。
だから、『人の目が無ければ、何をやってもいい大人になる(『現実に』なっている人が多い)』のではないかと思います。
上記の場合は、『ここはお家じゃありません。知らないたくさんの人がいる場所では、お行儀良くするのがお外の決まりです。』というのがいいと思うのです。『私は』。
おじさんやおばさんや、誰か他人に怒られるからではなく。外では家の中のように騒いではいけない。というルールがある。ということを教える。人の目ではなく、『ルール』『善悪の基準』を学ぶ。
『お天道様は見ています』
この前も書きました。
確かに。みています。お天道様。
でも、それは『他人の目ではない』。もちろん私 Verseauの目ではない。(でもなんか、私の目ばかり気にしている人ばかりの気がする。。苦笑。。)
『お天道様が見ている』=『自分の胸に手を当てて聞いてご覧』
であることがわからないでしょうか???
いつから、そんな大人ばかりになったんでしょうか??
善悪の基準を『自分の中に』持つ。
人の目があるから、人におかしいと言われるから、人が怒るから。ではなく、
それはやっていいことなのかどうなのか。『自分の心の一番奥深いところに聞く』。
その自分の心の一番深い場所は、宇宙のお天道様に、繋がっているから。
もう、学校教育、家庭教育、社会人として、『人の目』『親や教師の目』『上司や取引先の目』を気にしてばかりなのでしょう。
『自分で考えて、自分の心に善悪を尋ねる』ということを、日本で実行するのは、不可能なのか?と思ってしまうくらいです。
人の目ではなく、『自分の胸に手を当てて、よく考えてみましょう。』
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