繋がるか繋がらないか。権利と自由。
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「想念の虫」、というか、「想念の蜘蛛の糸」のようなものが、頭にこびりついて離れない。
以前はなんとも思わず、むしろ好んで読んでいたサイトで連れてきてしまった。以前にも、同じような経験があるけれど、頭の中にコンクリートでも流し込まれたように、思考が固まって停止し、考えが同じところをくるくる回って苦しくなる。お風呂に入ってちょっとスッキリしたけど、まだいる。なのでちょっと書いてみよう。なんか、眉間の辺りがまだムズムズする。これが消えるといいな。
Facebookが始まった頃、2008〜2009年くらいだっただろうか、ヨーロッパの友達に誘われて始めたけれど、FBは、もう随分前にやめてしまった。
もともと私は友人の数は少ない上、「Facebookで、ぜひ繋がりたい。」と思う友人たちは、必ずと言っていいほど、誰もFBをやっていないという状況で、FBには、友人や知り合いとも言えない人たちまでもが増えていった。
そんな状況で、次第に、FBを開けた瞬間タイムラインに出てくる、『友達』の文章や写真から、おかしなエネルギーが放射されて、頭が痛くなったり、気分が悪くなったり、『刺さった』り、奇妙な『圧』を感じて、FBを開けることに耐えられなくなった。しまいには、どうしても見えてしまう『友達の友達のプロフィール写真』までに、同じエネルギーを感じ取って、もう誰の顔写真も一切見たくないと感じる始末。
最初は、しばらく遠ざかろう。と、Facebookを開けないようにしていたけれど、開けないだけではダメで、『ネット上で繋がっているという事実』だけで、奇妙なエネルギーが侵入して、気分がおかしくなり、生活することさえままならくなっていった。
そんな私は、思い切ってFBをやめた。あらゆるつながりを切った。ちょっと試しに始めてみた他のSNSもやめた。
すると、激しい孤独がやってきた。誰とも繋がっていない、不安と恐怖。まるで、胎児が、突然、胎盤とつながる臍の緒を切り落とされたような感覚。
あまりの孤独に、FBを再開したけれど、また同じように『妙なエネルギー』の侵入が始まって、耐えらなくなってやめた。
何度かやめたり始めたりして(友人たちももう呆れただろう)、2014年頃、完全にやめた。
以来、SNSの類は一切していない。
最初の、激しい孤独感は次第に消えた。今は、この誰とも繋がっていない感覚が当たり前で、むしろ、『無意味に』『おかしなエネルギーや想念』とつながることの方が嫌だ。
数年前、奇天烈なカルトブログに捕まって以来、そういう想念が、新聞記事やTV番組、雑誌、広告、インターネットの中の普段見もしない読みもしないサイトをチラと見てしまった時、非常に真面目なニュースサイトを開いた時、などにまで感じるようになって、『この繋がり』『無意味な侵入』を断ち切ろうと努力した。とんでもない努力が必要だった。
だって、相手は皆『繋がりたい』のだ。無意識のうちに、
『誰もが、自分がそうであるように、繋がっているのが当たり前。』と考えている人たち。
『放っておいてほしい』と伝えても、それが、まったく理解できないらしい。『繋がっているのが当然』なのだ。
あなたが繋がりたいなら、それはそれでいい。どうぞご自由に。でも、『繋がりたい人たちとだけ』つながって欲しい。
『繋がらない権利』『独立している自由』があることを、『無意味に繋がりたくない人』がいることを知って、認めてほしい。
ようやく、わかってもらえ始めたかもしれない。 いや、本当のところは、まだ全然わかっていないかも。でもまあいい。以前のような『侵入』は減りつつあるし、カルトのところで感じ、世の中全体に蔓延していた『想念の虫』のような気持ちの悪いエネルギーは、ここ数年で、だいぶ消え去った。そういうものの存在を書き続けたので、なんのことだか実際にはまったく分からなくても、『そういうものが存在する」ことに気づき始めたようだ。
文化的なものもあるのかもしれない。特に日本人は、いつでもなんでも繋がっていたいらしい。
子供の頃から、これがちょっと(いや相当)苦手だ。5年生活したフランスは、個人の周囲に『壁』があって、そう簡単には繋がらなかった。一旦『壁』の中に招き入れてもらえたら、関係性が変わってくる。でも、日本には『壁』がない。誰もが、『相手の意思確認なく』勝手につながろうとする。
米国のトランプ大統領が、就任早々、数多くの大統領令に署名した。問題のある署名がたくさんある。こんなので大丈夫なのかと感じるけれど。その署名の一つに『不法移民の追放』がある。人道的見地からすると、とても難しい問題で、以前の私なら絶対反対だったと思う。けれど、今、これには理解を示したくなる。『許可していないのに、来ないで。勝手に繋がらないで。』といくら伝えても、『繋がって、壁をなくすのが当たり前』と考えている、知り合いでもなんでもない他人たちに大勢『不法に侵入』され、『想念の虫』『見えない刃物』『変な圧』などを撒き散らしていって、迷惑だった。
『離れている権利』『孤独でいる自由』が分からない人とは、繋がりたくない。
もちろん、永遠に一人でいる、離れている、孤独でいる。ということでは ない。
『繋がりたい時に、繋がりたい人と、適度な距離感で、自由に繋がったり、離れたり』しながら、『独立と自由を保つ』。
本当に大切な人たちとは、もっと強く身近な繋がりを保ちながら。
私の経験では、フランスではとても当たり前のことだったのだけれど、日本では、これが死ぬほど難しい。
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